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2024.1.15

#20 「美は感動」資生堂で55年、美を追求してみつけた一つの答え 資生堂学園理事長 ~マサ大竹(大竹政義)~

【マサ大竹】
新潟県生まれ。資生堂美容学校(現・資生堂美容技術専門学校)卒業後、1969年に資生堂に入社。資生堂の広告宣伝やパリ、ニューヨーク、東京のコレクション活動に長年に渡り携わったほか、世界各都市での国際的なヘアショーに出演。1995年より初代、ビューティークリエイション研究所長やSABFA校長を務め、 後進育成に意欲的に取り組み、気鋭の人材を輩出。2009年より資生堂美容技術専門学校校長に就任。

まだヘアメイクアップアーティストという言葉すら浸透していなかった時代から、先陣を切ってコンテストやパリコレで結果を出し、資生堂のビューティークリエィションの礎をつくったマサ大竹。75歳を迎えた今も、次代を担う人材を育成しながら、クリエイション活動の第一線に立ち続けています。今回は、マサ大竹が資生堂とともに歩んだ55年を振り返りながら、美容に携わる者の心構えや、未来のアーティストへのメッセージを語ります。

「男性が美容師になっていいんだ」絵から美容へ進路変更

小中高時代はずっと絵を描くことが好きでした。将来は絵描きになりたいと思ったこともあったけれど、アートとしての才能そのものが問われる厳しい世界である事を知るにつれ、自活できる才能があるかも怪しいと感じていたんですよね。

美術の先生という道も頭に浮かんだけれど、なんか少し違うわけです。美術大学を見学したこともありましたが、なぜか踏ん切りがつかない。いよいよ進路を考える段階で、男性美容師が活躍しているという小さな新聞記事を見つけたんです。今から50年以上前の話ですから「男が美容師になれるんだ」という衝撃があった。看護師、美容師などは女性の仕事だと、何の不思議もなく思われていた時代でしたから。

当時は東京オリンピックが終わってすぐの高度成長期。私にも東京への憧れがありました。でも東京の美容学校の知識が全くない。近所の本屋で新美容出版の本を見つけ、編集部に「東京の美容学校を教えてください」と手紙を送りました。そうしたら親切に返信してくださった。手紙には10校くらいの情報が書かれていたんです。そのうち、高校卒業が要件になっていたのが2校。せっかく高校を出ているので、高卒要件の学校に行きたいと思ったことと「資生堂」の名前を知っていたことが理由で、資生堂美容学校(現 資生堂美容技術専門学校)に入学しました。自分以外は女性ばかりの学校だったらどうしようと思っていましたが、同級生の1割弱が男性でしたね。

空っぽだった自分が、努力の末コンテストで日本一に

「美容学校を卒業したらパーマ屋さんで働くのかな」なんて思っていましたが、資生堂には「美容技術研究所(現ビューティークリエィションセンター)」がありました。美容技術研究所は、商品の研究をするグループと、広告や普及活動をするための表現をするグループがあったのですね。もともと美術が好きで、デザインにも興味があったから、卒業後に入りたいと思っていたんです。タイミングもよかったのでしょう。希望を出したら運よく入ることができ、気がつけばそれから何十年も所属し続けています。

美容技術研究所で実験的な技術の研究などをしたのですが、人よりできることなんて一つもないわけです。「会社は大きいけれど、自分自身は空っぽだ」と痛感しました。そんな私に気づいたのか、上司から「コンテストに出なさい」と言われたんです。どちらかというと引っ込み思案の性格でしたが、一念発起して挑戦したんですよ。

最初はコンテストに勝つための技術がないから、小さなコンテストでも連戦連敗。「ここで勝たなきゃ自分は終わる」と思ったので、独学で業務外や休日もコンテストに勝つための練習をしました。コンテスト会場でも周りの人たちの技を見て盗んで、自分なりにかみ砕いて咀嚼する。当時は携帯電話もなかったので、モノクロの写真を撮ってスクラップしていましたね。

そうして1973年、私が25歳のときにINTERNATIONAL BEAUTY SHOWというコンテストで日本のチャンピオンになって、翌年にニューヨーク世界大会に日本代表として出場。世界とのレベルの差を痛感したことが、新たな成長につながったと思います。

モデルを輝かせなければ、コンテストでは勝てない

コンテストで一番大事なのはモデルです。髪の毛だけ美しくても、それが大竹の作品だとは誰も思わない。モデルの雰囲気、オーラをつくらないと、そのモデルが最高に見えないんです。

モデルが美しいのは当然ですが、「どうしたらこの人をさらに美しく魅力的にできるのだろうか」という試行錯誤で、技術と表現に磨きをかけるしかないのです。

モデルを素敵に見せるために、デザインをどう似合わせるのか考え抜くのが我々の役目。だから私はメイクアップアーティストという言葉に違和感を覚えています。美術品をつくるアーティストではなく、人を相手に美しさを表現する仕事ですから、メイクアップデザイナーとかそんな呼び名でもいいと思っているんですよ。

これもまた上司の推薦で、1976年にパリコレに参加しました。資生堂が初めてパリに進出するタイミングだったんです。資生堂にとっても大きな賭けだったんですよね。それまで日本人が西洋人のメイクアップをすることはなかったんじゃないでしょうか。

毎回、いろいろなファッションデザイナーと仕事をするわけです。コレクションの切り口もそれぞれ違う。その中で爪痕を残さなきゃいけないわけですが、私はベストを尽くすことで精一杯。結果として「らしさ」が出れば十分だと思っていました。翌年からはファッションショーと資生堂がコラボレーションした大々的なプロモーション、「6人のパリ」を行うことに。そこから、資生堂のアーティストがヘアメイクを本格的にやれるチャンスが広がっていったのです。

一流が結集し生み出した「最高の1枚」の感動は私を虜に

資生堂の看板を背負って、一流のフォトグラファー、アートディレクター、デザイナーに揉まれながら仕事の腕を磨いてきました。どれもお金を払ってもできない経験ばかりです。例えば、撮影ならメイクが終わったらお役御免というわけではないんですよ。エディターやスタイリストからもいろんな意見が出てくる。それぞれに試行錯誤を重ねて、お互いの凝縮された力をあわせて、最高の1枚の写真が生まれる。あのときの刺激的な感動は、まさにクリエイションの醍醐味そのものです。同じモデルのヘアメイクをしても、写真の撮り方、光と影、衣装を含めた全体バランスによって、何倍にも美しく見えるものなんですよ。

その一瞬があれば、途中にどんなことがあっても最高の結果だったと思える。最高の一瞬を味わい、「また一緒に仕事がしたい」と思ってもらえるよう、どんな現場でもベストを尽くしていました。

技術は感性を輝かせ、感性は技術を輝かせる

1995年から資生堂ビューティークリエイション研究所(当時)の所長やSABFAの校長を務めることになりました。さらに2006年から資生堂美容技術専門学校の副校長、校長をして今は理事長もしていますから、人生の3分の1くらいは教育に携わっていることになります。

私は常々「技術は感性を輝かせ、感性は技術を輝かせる」と言っています。どれだけ優れた感性の持ち主でも、未熟な技術力のままでは美しいものをつくれない。その反対もまたしかりで、技術だけあっても人の心を動かすものはつくれない。ただ、技術は多少未熟でも、こだわりをもって美しいものを生み出したい欲求がある人は、技術が追いついてくる印象がありますね。

SABFAは美の刺激を求めている人にとって素晴らしい場所です。資生堂が培ってきたノウハウを凝縮したかたちで感じることができる。新しい世界に飛び込む勇気をふり絞って、ぜひ体験してほしい。きっと新しい発想や見方が生まれるし、自信もつくはずです。ただし、漫然と過ごしているだけでは、美を感じられない。せっかくSABFAで学ぶのなら、美をいつも感じる姿勢を持って学んでほしいです。

座右の銘「美は感動」

昔は「美は無限」とか「美しさは1つではない」などとよく言っていたんですよ。今は美というものは、心を動かしたり、ワクワクさせたり、パワーを与えてくれるものだと思います。だから「美は感動」なんです。

本当に素晴らしいと感じたとき、必ず人の心が動いている。人は美を心で感じているんです。私はこれからも美の感動を感じ続けたいし、感動を伝えていきたいと思っています。

資生堂美容技術専門学校 外部リンクアイコン

大竹氏を師匠と慕う元SABFA講師入江 広憲 2ショット

#19 入江 広憲MAGAZINE https://sabfa.shiseido.co.jp/magazine/2974/


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